オートバイ伝説 走り出せば青春

宮田製作所 戦前からの老舗、新興勢力との競争から自転車に専念

㈱宮田製作所 アサヒDC

宮田製作所 アサヒDC 200cc
空冷2サイクル単気筒 196cc
最高出力 3ps
前進3段
車重120kg
価格¥15,000

 

第2次大戦前に生産されていた175ccのアサヒ号AA型をベースにして、排気量をアップした戦後のモデルです。

 

ガーダー式フロントサスペンション、リヤリジッドという戦前タイプのフレームに、ビリアス型エンジンを積む。宮田製作所は1962年に、オートバイ生産から撤退し、自転車生産に専念することになりました。



宮田製作所の略歴

㈱宮田製作所(現モリタ宮田工業、ミヤタサイクル)は、1890年創業の歴史ある企業です。

日本で最初の国産モーターサイクルは、1909年の島津楢蔵が作成した4サイクル単気筒400ccのNS号でした。

 

それに遅れること4年、1913年(大正2年)、東京・本所にあった宮田銃砲製作所が、トライアンフをモデルにしたアサヒ号を3年間に30~40台製作する一方、2サイクル単気筒3.5馬力のアサヒを1台480円で警視庁に納入しましたが、ほどなく生産を中止ししました。

 

理由は、モーターサイクルを購入できる華族や富裕層は、700年~900年で購入できる輸入車に興味を持っていたからのようです。

 

その後、宮田製作所が、初めて量産効果による採算モデルとなったのが、ミヤタのアサヒ号AA型でした。

 

1935年(昭和10年)4月から量産体制に入り、37~39年には月産150台を維持するという、当時としては大ヒットだった。

宮田製作所の戦後

1942年(昭和17年)には金属類の回収が始まった。橋や公園のベンチ・銅像・社寺の鐘はもとより鉄製の火鉢、鍋釜までが家庭から姿を消し、モーターサイクルもこの時期で供出されたのでした。

 

主食の米も麦や豆、いも、めん、パンやおから、スイトンなどの代用食に変わっていた。

 

敗戦の年1945年(昭和20年)に商工省に登録されていたメーカーは5社。陸王内燃機、宮田製作所、昌和製作所、丸山製作所、目黒製作所だった。

 

陸王、昌和、宮田が翌年から生産を再開した。それが上記のアサヒDCでした。



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