僕は、大学2年生の21歳の1978年に、
自動二輪中型の免許を取りました。
そしていきなり400ccのオートバイを買ったのです。
一人で上野の中古車街にいって、
これください!と言って買ったのがヤマハGX400でした。
でも、そのマシンはあまり長くの乗りませんでした。
購入して半年くらい経ったGWに実家の富山にバイクで帰り、
東京への帰り道の長野塩尻で、事故ってしまったのです。
なんとか直して乗り続けましたが、今度は夏に軽井沢からの帰り道、
なんと居眠り運転で、国道から飛び出して、畑に突っ込んでまた事故ったのです。
また直して乗りましたが、その後数ヶ月で、格安で友人に売ってしまいました。
まあ、死なないで良かったというのが正直な気持ちです。
ヤマハスポーツRD400 プロフィールとポテンシャル
ヤマハスポーツRD400
1976年
エンジン:空冷2サイクル・ピストンリードバルブ2気筒
ボア・ストローク 64.0mm×62.0mm
排気量:398cc
最大出力:38.0ps/7,000rpm
最大トルク:3.90kg-m/6,500rpm
重量:155kg
登坂力:28°
始動:キック 6速
タイヤ:F3.25-18 R3.50-18
価格\310,000
この当時(1976年、昭和51年)としては、最もパワフルなマシンでした。
RD350のボアを8mmアップ。
従来通りの7ポート(吸気1、ブースターポート1、
更に吸気ポートからシリンダー後部へのグループが1、
トランスファーポート4、排気ポート1)を継承しつつも、
リードバルブを改良し、中速域でのレスポンスを向上させていました。
また、低回転域でのギクシャク感を改善するため、
シリンダー壁の排気ポート上部に排気孔に通じる穴を開け、
低回転時にも混合気を効果的に
排気孔へ導き出す処理も行われていました。
圧縮比も同時に低めに設定し直されています。
ミッションは6速。
従来に比べ4、5、6をクロス、
2.235(38/17)と高められた(RD350 40/15)二次減速比にマッチさせていました。
キャブレターは、右側のスターターにラバーチューブを介して左側に連結。
チョークの使用時は左右同時に混合気の調整が行える。
圧縮比の変更に伴い、エンジンのスタートも改善されました。
走行性能はレーサー・モデル並みのクイックな印象で、
RD350と変わらぬ敏捷さと共に、フロントの落ち着きも安定していました。
これは、パワーユニットをRD350に比べ30mm前寄りに移動させたためで、
荷重もフロント44%とベストな状態を作り出していたのです。
キャスター角はRD350と変わらず、トレールは3mm延長されました。
中低速の出力特性を向上させたとは言え、
パワーバンドは相変わらずのピーキーさで、
ギア比の設定にも影響され、市街地ではやや使い辛い印象を受けました。
しかし、一度街を抜け出した時、このマシンの真価が発揮されたのです。
そして大いなるスポーツ心を満たしてくれたのでした!
ヤマハスポーツRD400 プレスライダーになった
僕は、大学3年生になってオートバイでアルバイトを始めました。
それはプレスライダーと言われる仕事で、
新聞社の記者クラブで刷り上がった新聞を持っていったり、
事件、事故現場に記者の書いた原稿を取りに行ったりという仕事でした。
1979年当時は、携帯電話もファックスも当然メールもない時代。
通信手段のない場所で、事故なり、事件が起きれば、
書いた原稿を新聞社のデスクまで運ばなければならない。
そこで機動力のあるオートバイはものを言ったのです。
僕は勤めていた会社は、朝日新聞社に入っていた、
当時、まだ有楽町にあった朝日新聞社から、僕は運輸部のデスクからの指示で、
記者クラブや事件現場に行ったものでした。
でも半年も続けたかな、、
やはり危険な仕事だったので、やめることにしました。
その時に乗っていたバイクが、RD250でした。
初めての2サイクルでしたが、僕は2サイクルの加速感に痺れ、
その後、スズキハスラー250、RZ250、RG250Γと乗り継いだのです。