1950年代、日本各地にオートバイメーカー
1945年8月に日本は第二次世界大戦で敗戦国となりました。
僕は、1957年(昭和32年)生まれなので、東京オリンピックが開催された1964年以前の記憶は、非常に断片的ですが、みんな、質素でその日その日、懸命に生きていたように思います。
戦後の貧しい時代の移動や運搬の手段は、オートバイでした。
だからオートバイメーカーがたくさんあり、凌ぎを削っていました。
まさに50年代は日本のオートバイの黎明期だったのです。
特に浜松市には、たくさんのオートバイメーカーは集まっていました。
今のホンダ、ヤマハ、スズキもそうでした。
しかし、60年には、多くのメーカーが無くなったり生産を終了したりしてしましました。
そこでそんなメーカーを見ていきたいと思います。
丸正自動車製造 第1回浅間レースでホンダに勝利
創業者の伊藤正(いとうまさし)(1913-2005)は、1929年(昭和4年)に本田宗一郎(1906-1991)が経営していたアート商会浜松支店(現㈱アート商会)に入社し、自動車修理工として技術を習得しました。
そして、1938年(昭和13年)に兄と共に独立し、野口町に丸正自動車商会を設立しました。
しかし、戦争が激しくなると浜松も空襲を受け、会社設備や取引先が被災するなど事業が続けられなくなり、一時、操業を止めて、師匠の本田宗一郎を頼り、そこで働かせてもらったりしていました。
戦後、伊藤は1948年(昭和23年)には、上池川町でトラックの修理販売を始めて、同時に二輪車製造の研究も始めました。
その後、伊藤は、社名を丸正自動車製造に改め、ホンダと異なる構造のオートバイ開発を目指し、チェーンのないドイツのオートバイを参考にシャフトドライブのオートバイを開発しました。
1951年(昭和26年)には、本格的にライラックMLやLBの生産を始めました。
1953年(昭和28年)には、6,435台の販売を記録して、当時では、ホンダ、トーハツに次いで業界3位となりました。またこの年、セミスクーターのベビーライラックを発売し、爆発人気を呼びました。
ちなみに丸正自動車製造のオートバイ名ライラックは、伊藤の藤から取ったそうです。
1955年(昭和30年)には、第1回浅間高原レースの250ccクラスに出場、大方の予想を裏切って、ホンダ、ヤマハ、スズキを破り優勝し、ライラックの名声を高めました。
しかし、50年代も後期になると二輪車メーカーごとの技術開発や生産能力と営業力に大きな格差が生まれだし、日本各地に膨大な数が存在した中小のオートバイメーカーは淘汰され始めました。
丸正自動車製造も経営が厳しくなり、スズキ、三菱重工業などから提携やOEMの話がありましたが、問題も発生し、1961年10月12日に1回目の倒産をしました。
その後、ホンダの下請けとして再起を図り、アメリカへの販売に活路を見い出しますが、うまく行かず、1966年12月には、完全に清算となってしまいました。
優秀な技術陣を擁しながら、創業者・伊藤のワンマン経営が響いたとも言われています。
その後伊藤は、旧本社工場跡地にマンションを建て、そこのオーナーとして余生を送り、2005年に92才の高齢で他界しました。
ライラック250SY 丸正自動車製造の名車
ライラック250SY
空冷4ストOHV単気筒
排気量:242.4cc
最大出力:8.5ps/4,700rpm
最大トルク:1.6kg/m2,800rpm
車重:149kg
価格:\175,000
第1回浅間高原レースに丸正自動車製造は2台のライラックSYを250クラスにエントリー。
絶対的本命のホンダ・ドリーム250に5秒差を付けで優勝。
マシンは、保安部品を取り外した程度のチューンで臨んだライラックでした。
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