1978年(昭和53年)といえば、
成田空港が開港した年です。
開港したといっても、
ようやく滑走路一本で開港にこぎつけました。
千葉県成田市三里塚に
新しい国際空港を作ることが決まってから50年以上経ち、
開港してから40年経ちました。
新東京国際空港が正式名で、
羽田空港に代わる新しい国際空港として
1966年(昭和41年)7月に
千葉県成田市三里塚への建設が閣議決定されました。
地元の意向を無視した決定として住民らが血良く反発し、
新左翼・過激派各セクトもこれを支援して
工事は難航しました。
戦後、これほど混迷を極めた国家事業はありませんでした。
こんな状況の中、78年8月に当時大学生2年生だった僕は、
のんびりしたもので、大学の先輩と二人で、
成田空港からアメリカに1ヵ月の旅に出ました。
東京駅から、成田空港行きのバスに乗った記憶があるだけで、
成田空港の記憶はあまり残っていないですね。
飛行機の中で、「グッバイ・ガール」を上映していたのはよく憶えているのに。。。
そして、アメリカから帰国して何を思ったかその秋に
自動二輪中型の免許を取りに行きました。
それが実際の僕とオートバイとの付き合いの始まりです。
ヤマハスポーツXS650special プロフィールとポテンシャル
ヤマハスポーツXS650special
1978年
エンジン:空冷4サイクルOHC2気筒
ボア・ストローク 75mm×74mm
排気量:653cc
最大出力:51ps/7,500rpm
最大トルク:5.4kg-m/5,500rpm
重量:205kg
最高速:150km/h
燃費:35km/l
始動:セル・キック 5速
タイヤ:F3.50-19 R130/90-16
価格\450,000
ビッグ・ツインの魅力を全身で表して登場したXS-1から、
ベーシックモデルへと変化したTX650が、
パワーユニットの存在感を遺憾なく発揮して、
アメリカン・タイプのモデルをもデビューさせました。
TX650の英国調のムードから全く異なる変化は、
トライアンフのアメリカ向けモデルにも見られるように、
特に異質なものではありませんでした。
アメリカンモデルのブームはヨーロッパにも飛び火し、
世界的にも広がりを見せていました。
カスタマイズされた特種なモデルとしての
存在感をアピールしていただけに、インパクトの強いモデルでした。
大学時代の友人が乗っていて、
彼はどちらかというと飛ばし屋だったので、
アメリカンタイプのXS650specialをスポーツマシンのように
乗り回していました。
でも、かっこいいマシンでしたね。
アメリカン・タイプのルーツ イージー・ライダー
日本で、「イージー・ライダー」が上映されたのは、
1970年(昭和45年)。
当時中学1年だったのですが、自転車通学をしていて、
中に自転車の後ろ座席に座り、ハンドルは腕を伸ばした状態で乗っている友人がいて、
「イージー・ライダーみたいだろう」
というのを見て、聞いて、そんなことからイージー・ライダーを知ったのでした。
イージー・ライダー アメリカン・ニュー・シネマの傑作
薬の密輸でひと儲けしたキャプテン・アメリカことワイアットと相棒のビリーは、
時計を捨て、カリフォルニアからアメリカを横断する旅に出ました。
ニューメキシコのヒッピー・コミューンになじめなかった二人は、
テキサスの田舎町のパレードに紛れ込んで逮捕されてしまいます。
二人は留置場でアル中の弁護士ジョージと意気投合し、
ニューオーリンズを目指すことになりました。
米国南部の人々はヒッピー風の3人に敵意むき出しでした、
野宿する3人が襲われ、ジョージは命を落とします。
ジョージの遺志を継いで二人はニューオーリンズにやってきました。
でも全てがむなしくなった二人は旅を続けました。
でも、道ですれ違ったトラックから銃撃され、命を失います。
この映画から9年後、僕は先輩と二人でニューオーリンズを訪れました。
イージー★ライダー コレクターズ・エディション デニス・ホッパー 、 ピーター・フォンダ
まとめ
1960年代から70年代にかけては、
世界的に反戦運動が盛んで、
自由を求める気運が高かった時代です。
そんな時代に僕は思春期を迎えました。
団塊の世代の人たちは既に大学生や社会人になっていました。
このころの映画としては、
「イージー・ライダー」「俺たちには明日はない」
「明日に向かって撃て」「いちご白書」、
そして僕が特に影響を受けた五木寛之の「青年は荒野をめざす」は、
1967年(昭和42年)僕が10歳の時でした。
ヤマハが初めて世に出したアメリカンタイプは78年。
ヒッピー文化から影響を受けた世代が
ちょうど20歳前後になった頃でした。
良いタイミングだったのです。
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